軽井沢別荘の歴史03「私の軽井沢物語」朝吹登水子

2019.07.10

モリノイエ軽井沢 編集室

表参道と軽井沢のアトリエで、別荘や住宅の建築設計を中心に活動する私たち〈モリノイエ軽井沢〉は、“都会暮らし、森暮らし。”という新しい日本の暮らし文化をつくることを大切に、連載「軽井沢別荘の歴史」で、軽井沢の別荘建築や山荘暮らし、建築家の図面や作家の芸術作品、写真集などを紹介していきます。

03「私の軽井沢物語 霧のなかの時を求めて」
朝吹登水子
文化出版局(1985)

大正・昭和・平成を生きた一人のフランス文学者、朝吹登水子(1917-2005)。実業家である朝吹常吉の長女として生まれた彼女が、幼少期から毎夏訪れていた軽井沢の別荘〈睡鳩荘〉での思い出を振り返り、宣教師をはじめ有識者に愛された軽井沢の歩みを記し、そして、世界の争いから平和へと開かれていく日本への期待を寄せたエッセイ。

朝吹登水子が生後6ヶ月で、初めて軽井沢の別荘を訪れたのは1917年。上野-横川間に鉄道が開通し、軽井沢の父と呼ばれる宣教師のA・C・ショーが初めて軽井沢を訪れてから、およそ30年後のことです。作家の有島武郎や室生犀星、堀辰雄らは、軽井沢の涼夏に心を預け、数々の作品を後世に書き記していた時代でもあります。時を経て1923年には、日本の大きな変化の契機となる関東大震災を経験。堀辰雄らに招かれた文人たち(川端康成、折口信夫、中村一郎、中野重治ら)をはじめ多くの人々が、軽井沢の森に安静を求める経緯ともなりました。
 
朝吹登水子は、そんな時代を生きた幼少の頃の記憶を、母の弟・坂部護郎がアメリカ製のグラフレックスで撮った写真とともに回想します。
 
各駅停車で、深谷、本庄、高崎、安中から碓氷峠に入り、横川駅を降りた瞬間のひんやりした空気の清純さ。矢ヶ崎川と平行して流れる小川から水を掬って暮らした日々。〈土屋写真店〉や〈軽井沢ホテル〉や西欧アジアの洋服店が立ち並んでいた大正初期の旧軽井沢のにぎわい。テニスに興じた少女時代のこと。パリで過ごしたこと...。

しかし次第に風向きがうつろい、日本は戦火に見舞われていきます。そして、東京の本邸を失った人々は軽井沢へ疎開。朝吹登水子もまたそのひとりであり、1944年に子宝を宿し、ひととき鎌倉の別荘で身を休めていたものの、本土の制圧が進行していることを紙面で知り、戦闘機が飛ぶ空の下、横須賀から上野へ汽車を乗り継ぎ、軽井沢を目指しました。軽井沢へ辿り着いてからは、〈志賀高原ホテル〉でわずかな食糧を家族や知人らと分け合い、暮らしを紡いでいきます。そして1945年の6月に長女を出産。8月の終戦の報せに悲しみと安堵の涙を流し、未来を信じ、自分の生きる道を懸命に探し求めていきました。
 
そして悲哀から新たな活気がよみがえる時代を迎えていく日本で、朝吹登水子らは、戦火で家を失い、政府からの救済もない子どもたちを救う慈善事業「タカラ・クラブ」を軽井沢で発足。〈万平ホテル〉でバザーを開いて物資を共有する機会をもうけたり、子どもたちへの奨学金を出したり、全国の施設から子どもたちを軽井沢へ招いて夏休みを送らせたりと、自らにできることから平和への歩みを進めていきました。そして、1950年にはフランスへ渡り、フランソワーズ・サガンの『悲しみよ、こんにちは』の翻訳に筆をとり、その後もパリの文化や軽井沢での日々を回顧したエッセイを上梓。1958年には、第11回カンヌ国際映画祭で審査員を務め、2000年にはフランス政府より、レジオンドヌール勲章シュヴァリエを叙勲されました。
 
大正から昭和、そして新たな時代の幕開けとなった平成を生きた朝吹登水子。自らの人生を振り返り、あとがきにはこう記しています。
 
「パリに住んでいた頃、時折、隣接するブローニュの森に近い私の住居で、ピョロピョロッピー、と軽井沢と同じ小鳥の鳴き声を聞くことがあった。甘い郷愁に浸ったわけでは決してなかったが、ふいに軽井沢の一陣の白い霧を頬に感じ、父と母と一緒にいた頃の幼い自分や、嵐が来る前の泡沫の平和の中であそんだ若人たちの姿が浮かんで、私の胸をしめつけた。これらの映像が霧の中に永遠に消えてしまう前に、私は自分が見、聞き、味わった軽井沢を紙上にとどめておきたいと思った。
この私の『軽井沢物語』の他に、学者の軽井沢物語、音楽家の軽井沢物語、画家の軽井沢物語があろう。(中略)私は自分の記憶にある大正末期から戦争を経て、再び平和が戻るまでの軽井沢を記した。そこには、移り変わる日本の社会が、軽井沢という小さな町に反影している(p241-p.246)」
 
一人の命が後世に語り継ぐ軽井沢の物語。軽井沢に刻まれる人々の人生。
 
時を重ねて築かれた軽井沢の文化に敬意を抱くとともに、この地で人々の暮らしに寄り添えることに、よりいっそうの熱意を感じずにはいられません。“都会暮らし、森暮らし。”という新しい日本の暮らし文化を、私たちはこれからあとどれくらい伝えていくことができるでしょうか。軽井沢での日々のことを、少しの言葉とフィルム写真に記憶し、後世に残していけたら。そんな想いがあたたかさをもって、私たちの胸中に宿されるのでした。