特集「軽井沢の山荘と建築家」
吉村順三 01

2019.08.20

モリノイエ軽井沢 編集室

表参道と軽井沢のアトリエで、別荘や住宅の建築設計を中心に活動する私たち〈モリノイエ軽井沢™️〉は、「軽井沢の文化や歴史、そして森と共にある暮らしのすばらしさを後世に伝えていきたい」と考えています。
 
そんな想いから、特集「軽井沢の山荘と建築家」では、〈軽井沢 森の家〉を設計した吉村順三をはじめ、中村好文、堀部安嗣らが手がけた軽井沢の別荘建築を紹介すると共に、彼らの軌跡を辿りました。
 
この軽井沢の地で、人の住まい(巣まい)を創造してきた偉大な建築家の考えや見方を知ることは、これから暮らしを築いていくあなたにとって、または五感の泉を蓄える若き建築家にとって、人生の愉しみになると言えます。
 
都会の豊かさや森の美しさを享受するあなたと交わしたい「軽井沢の歴史や文化を築いた建築家の物語」を見ていきましょう。

吉村順三とアントニン・レーモンド
そして、軽井沢

  • ▲「小さな森の家 軽井沢山荘物語(建築資料研究社)」では、吉村順三を代表する〈軽井沢 森の家〉の四季折々の佇まいと、軽井沢での森暮らしのこと、猪熊弦一郎や丹下健三なども集い音楽会を開いた思い出、雄大に広がる軽井沢の森のようすなどが記録されている。〈軽井沢 森の家〉を写真に収めたのは、写真家のさとうつねお
  • ▲7冊+別冊補遺の合わせて計8冊が刊行されている「吉村順三建築図集」。そのうち「吉村順三建築図集Ⅰ」では、1962年に設計した〈軽井沢 森の家〉の総図面が収録されている
  • 建築家・吉村順三(1908-1997)。
    東京の呉服商の家に生まれ、幼い頃にフランク・ロイド・ライトが設計した〈帝国ホテル〉を偶然訪れた時に、その空間のすばらしさに建築への憧れを抱くようになりました。しかし当時は、建築家という仕事は大学の教授くらいなもので、漠然とした将来を描きながらも、〈東京美術大学(現 東京藝術大学)〉へ進学することに。学生時代には、日本の古き建築を巡り、また海外の建築にも歩みを広げ、建築のあらゆる美しさにまなざしを向ける日々を過ごしました。

    そんな吉村の学生時代に、転機が訪れます。ある日、大学の教室で一枚の写真に目が留まります。そこには「アントニン・レーモンド 東京」と記されていました。吉村はその時のことを、後年の自著「火と水と木の詩(新潮社 p.36)」で、「学生時代は暇がありましたので」と語るように、毎日のように街を歩いて、ついにその家を発見したのです。
     
    そして、そこに現れたのは、チェコ出身で、ライトを師にもつ建築家アントニン・レーモンドでした。吉村はカタコトの英語であいさつをすると、レーモンドに招かれ、自邸を案内されることに。さらには、一つ空いた製図板の席を前に、「お前ここでやるか」と言われ、「しめた!」と思った吉村は、翌週からレーモンドのもとへ通うこととなったのです。

  • ▲1934年、アントニン・レーモンド事務所の所員たち。前列の右端が若き日の吉村順三(「火と水と木の詩」新潮社 p.39より)
  • そこからは、レーモンド事務所と大学を往来する日々を送り、レーモンド事務所に入所。ニューヨークに渡り「意匠の華美な建築よりも、日本の合掌造りのような単純なものの美しさ」に気づかされたり、「大きな建築も小さな住宅の集合体」であることを実感したりしていきます。

  • ▲1926年、当時学生だった吉村順三が、中国や韓国で描いたスケッチ(「火と水と木の詩」新潮社 p.33より)
  • その背景には、吉村の師であるレーモンドが、モダニズムを追求したフランク・ロイド・ライトからの教えを編み直して、合掌造りなど日本の伝統建築に『モダニズム建築』の原石を見出し、日本の近代建築を昇華させていったという軌跡があります。
     
    レーモンドは、1933年軽井沢に、吉村をはじめ多くの所員が通う合宿所であり創作の場として〈軽井沢・夏の家〉を設計。1945年の戦争を前後しても日本を往来し、西欧の様式を一方的に組み入れるのではなく、日本の自然の恵みを享受したモダニズム建築を、次代の建築家たちと語り合ってきました。
     
    そして、自然と調和したレーモンドの建築的感性はのちに、『レーモンド・スタイル』とも呼ばれるようになります。
     
    (レーモンドについては、DIARY「軽井沢の別荘建築の本棚04」でも詳しく紹介しています)

  • ▲1954年、吉村が設計したニューヨーク近代美術館〈MoMA〉の中庭にある書院造のスケッチ(「火と水と木の詩」新潮社 p.57より)
  • そんなレーモンド事務所での日々を経て、吉村は1941年〈吉村設計事務所〉を開設。そして、1954年にニューヨーク近代美術館〈MoMA〉の中庭にある書院造の設計、1955年には国際文化会館の設計など、数多くの建築を手がけるようになりました。その功績から、1962年には〈東京藝術大学〉 の建築科で教鞭をふるうようにもなり、のちに中村好文や宮脇檀、藤森照信ら日本の近代建築を牽引する建築家に師事される存在となっていきます。