旧り難し

2020.06.09

モリノイエ編集室

新緑の季節も足早に通り過ぎ、町中が色濃い緑に染め上げられていく。
袖まくりをした腕が、湿り気を増した空気に触れ、梅雨がもうそこまで来ていることに心付きます。 
 
… 
 
「軽井沢」と聞いて真っ先に思い浮かべるのは、たくさんの人で賑わっている旧軽井沢銀座通りの光景だ、という人も多いのではないでしょうか。 
この旧軽井沢銀座通りに代表される「旧軽井沢(通称:旧軽)」エリア。 
軽井沢の中でも指折りの、由緒ある高級別荘地として知られています。 
 
ところで、 
 
「旧」があれば、「新」もある。 
「新」がなければ、「旧」もない。 
 
この「新」「旧」の呼び名は、一体どこから来ているのでしょうか。 
 
… 
 
西暦1600年。 
関ヶ原で勝利した徳川家康は、全国支配の基礎固めに「五街道」を整備します。 
そのうち、江戸と京都・大阪を結ぶルートは、海側の「東海道」と、内陸側の「中山道」。 
長野県と群馬県の間に位置する碓氷峠(うすいとうげ)は、中山道の中でも有数の難所として知られていました。 
 
ちなみにこの碓氷峠は「中央分水嶺」と呼ばれ、 
峠の長野県側に降った雨は、信濃川水系を流れて日本海に注ぎ、 
峠の群馬県側に降った雨は、利根川水系を流れて太平洋に注ぐ、 
地勢的にも関東と北陸・甲信越の境界となっています。 
 

軽井沢宿は、碓氷峠を越えてすぐの宿場町。
沓掛宿、浅間宿と合わせて「浅間三宿」と呼ばれ、峠越えで疲れ果てた旅人がゆっくり体を休めることができる宿場町として、江戸時代には大きな賑わいを見せました。

その後明治に入り、新しく生まれた長野県政にとって、人・モノの移動、産業発展の大きな障害となっていた碓氷峠の攻略は悲願でした。 
 
そこで1883年、県は馬車の通れる新国道開作に着手。 
1887年には軽易馬車鉄道会社が設立、新国道沿いに馬車鉄道の線路が敷設されます。 
さらに1893年、馬車鉄道に代わって急峻な碓氷峠を超えることができる「アプト式ラックレール」を採用した官設の鉄道が開通。 
東京の上野駅と直結し、これ以後、軽井沢駅が地域の玄関口、交通の中心地となります。 
そして、次第に軽井沢駅界隈は「新軽井沢」、中山道の旧道界隈は「旧軽井沢」と呼ばれるようになっていったそうです。 
 
新旧入りまじる、文明開化の縮図としての軽井沢の姿が、現在の地名からも見えてきます。 
 
 
【旧り確し(ふりがたし)】 
意味:古びることなく、変わらない。昔のままである。