人工的自然美

2020.05.20

モリノイエ編集室

今日、5月20日は二十四節気の「小満」。 
万物に生気が満ちていくと言われるこの時期、軽井沢は山や森や林が一斉に若葉色に染まり、一年で最も美しい時を迎えます。 
 
… 
 
整然とした並木道。 
苔むした石垣。 
豊かな命を育む森林。 
 
今、軽井沢と聞いて思い浮かぶこれらの風景が、開拓前の元々の地勢によるものだったのかというと、実はそうではありません。 
 
元来、軽井沢周辺は水が多く、湿地帯や沼地ばかりの荒れ地。 
長年にわたる浅間山の噴火による影響や、牛馬の放牧地としての利用もあり、樹木は多くはありませんでした。 
 
軽井沢周辺が、現在の樹木に囲まれた緑豊かな風景へと変貌を遂げることになったのは、1880年代に入ってから。 
わずかここ140年ほどのことなのです。 
(事実、歌川広重・渓斎英泉が描いた浮世絵『木曽街道六拾九次』の軽井沢宿には、あまり樹木が描かれていません) 
 
当時、カナダ人宣教師A.C.ショーが、軽井沢を避暑地として国内外に紹介したのと時を同じくして、軽井沢に魅せられた財界人が続々と開発に着手します。 
 
甲武鉄道(現在のJR中央線)の創業者である、実業家・雨宮敬次郎(あまのみやけいじろう)は、不毛の地であった軽井沢がカラマツの適地であることを発見。
現在の南が丘周辺を中心に、年に30万〜40万本、最終的に700万本にもおよぶカラマツを植林します。
(この成功により、雨宮は“植林王“と呼ばれることになります)
 
日本屈指のゼネコン「鹿島建設」の前身である鹿島組の2代目 鹿島岩蔵は、万平ホテルの創業者・佐藤万平とともに15万坪の土地を購入。
そこに6件の日本人用の貸別荘(通称”軽井沢の六軒別荘”)を建て、周辺の植樹活動も推し進めました。
 
軽井沢で初めて大規模な別荘地分譲を行った貿易商社「野澤組」の野澤源次郎は、別荘地の造成にあたって多くの落葉松を植樹。
新日本街路樹百景にも選ばれている、旧軽井沢ロータリーから旧三笠ホテルに続く「三笠通り」周辺の並木も、野澤が手掛けたものだそう。
 
今、訪れる人々を魅了する美しい並木は、明治大正期の有志たちによる植樹・植林活動の賜物なのです。 
 
さらにその後、戦後復興において人工林主伐材の需要が高まり、植林されたカラマツが伐採され、再びあらわになった土壌に陽の光が降り注ぎ、クリやナラ、モミジといった広葉樹が芽吹き、風光明媚な今の軽井沢の風景がつくられていくことになります。
 
浅間山を讃える厳しくも雄大な自然と、先人たちによる人工の自然美の調和。 
他の別荘地と一線を画する軽井沢特有の空気感は、そこから醸成されているのかもしれません。 
 
 
※写真は、PORTFOLIO #082「森の奏」